生成AI時代に求められる“おせっかい”の価値

現在、都内の大学で教育学関連の授業を担当しています。最近気になることがあります。学生たちからのレポートを読むと、「かっちりした言い回し」が増えたなと感じるようになった点です。様子を窺っていたところ、「生成AI」に回答させた文章をそのまま提出していたようです。

2022年11月、アメリカのオープンAIが「ChatGPT」を公開して以降、日本でも生成AIブームが訪れました。教育分野にもその影響は出ています。仙台大学の研究によれば、生成AIを使っている高校生や大学生らの3割近くが、課題やリポートに生成AIの回答をそのまま写して提出したことがあるそうです。
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20240815-OYT1T50207/

生成AIには可能性がある

多くの方が実感していると思いますが、生成AIはいたるところに普及しています。ビジネスにおいては、課題の整理やアイディア出しなどの「壁打ち」の相手として生成AIが大活躍しています(かくいう私もその一人)。他にも、画像やキャラクターデザインの作成、相談サービスにも生成AIが活用されるようになっています。

学校教育においても同様です。学習指導要領が2027年ごろに改訂されると言われていますが、そこにも生成AIの使用について盛り込まれると予想されます。留意すべき点もありますが、個人的には生成AIを教育現場で用いることには賛成です。

生成AIの活用には多くの可能性があります。今後、私たちの生活により根付いていくでしょう。だからこそ、「生成AIとどのように向き合うか」は考えていきたいところです。

生成AIに「日本人の秘書」を描かせると……

ざっくり言うと、テキスト生成AIは、インターネット上の文章を機械学習し、ユーザーの指示に応じて文章を作成します。そのため、ネット空間に存在するマジョリティー(多数派)の意見が反映されやすく、マイノリティー(少数派)の意見は反映されにくい仕組みになっています。

そもそもインターネットを使う層には偏りがあり、高齢者は利用率が少ないとされています。総務省が発表した「通信利用動向調査」(2024年6月)では、60代までは9割近くがインターネットを利用しているのに対し、60代以上になると利用率は減っています。生成AIの答えには、高齢者の意見が十分に反映されていない可能性があります。

また、生成AIの回答にジェンダーバイアスがあることも指摘されます。画像生成AIに、「日本人のCEO」を描かせると、男性の画像ばかりが表示され、逆に「日本の秘書」を描かせると、女性の画像ばかりが表示されます。
https://www.asahi.com/articles/ASRC94QBZRB3ULLI006.html

実際に質問をしてみた

試しにChatGPTにこんな質問をしてみました。

【質問】
良い学校や質の高い学校とは、どのような学校ですか?

【回答】
成績や進学実績: 学校全体の学業成績や、希望する高校や大学への進学実績が高い場合、学習環境が整っていると評価されます。
生徒の多様性を尊重する文化: 国際的な環境や、障害を持つ子供を受け入れているかどうかなど、多様な価値観を尊重する姿勢がある学校は、社会性や共感力を育てやすいです。

皆さんは、この回答を読んで気になることはありますか。一読すると普通ですが、2箇所ほど留意すべき点があります。

1つ目は、質の高さ=成績・進学実績となっている点です。学業成績や受験に成功させることも「学校の質」に関わる指標として第一に挙げることは適切でしょうか。「良い学校」とは、生徒を「良い学校」に行かせる学校である、とするのはトートロジーではないでしょうか。個人的には、そういった外部からの“ものさし”に子どもを当てはめるのではなく、一人ひとりの個性や興味・関心を尊重し、自分らしい学びをサポートすることの方が重要であると考えます。

「良い学校」や「質の高い学校」について考えるには、学校や教育という営みが「何のため」にあるのかを遡って考えることが必要です。生成AIの回答は「教育の目的は何か」「英知を磨くは何のためか」といった重要な問いへと私たちを導いてはくれません。私たち自身が、そのような問いについて考えを深めておく必要があるのです。

2つ目は「障害を持つ」です。この表現は「障害を持つ」にするか「障害がある」にするかで意見が分かれています。

「持つ」には、個人に障害があるという意味合いが強く、当事者が抱えているもの、当事者が自己解決しなければならないもの、というニュアンスがあります(このような考え方を「個人モデル」といいます)。「ある」には、個人が障害を抱えているのではなく、社会に障害が“ある”、社会全体の問題として捉える考えが反映されています(このような考え方を「社会モデル」といいます)

このように、生成AIの回答は完璧ではなく、表層的な回答に止まったり、偏見や差別的表現が含まれていたりする可能性があります。提示された内容を鵜呑みにすることなく、「違和感」を持つことが大切でしょう。

とはいえ、生成AIが生み出すテキストは、自然な表現になっていて納得感があり、「違和感」を持つことは簡単ではありません。そこで大切になってくるのが「多様な人との関わり」だと思います。さまざまな価値観やバックグラウンドを持つ人と交流すると、自分の価値観が広がり、「他者への想像力」が養われます。

異なる他者に関わろうとする学会活動

よくよく考えてみると、この力が身につく場所は、私たちの身近にあります。創価学会の活動です。月1回行われる座談会は、同じ地域に住んでいる学会員が集まります。普段の仕事や交友関係では、接することがない人たちとも交流できる機会になっています。

また、創価学会の機関紙である聖教新聞には、「信仰体験」というコーナーがあります。ここでは、学会員が信仰を通して人生の苦難とどのように向き合ってきたかが描かれています。自身や家族の病気、仕事の人間関係、経済苦……自分が経験したことのないストーリーに思いを馳せることも「他者への想像力」を育てることにつながると実感します。

そして何より、創価学会には「同苦」という考え方があります。他者の苦しみを自分の苦しみとして受け入れることを意味します。

御書には「一切衆生の異の苦を受くるは、ことごとくこれ日蓮一人の苦なるべし」(新1056・全758)とあります。「全ての人々が、さまざまな苦しみを受けるのは、全部、日蓮ただ一人の苦しみになるのです」という意味です。この一文の通り、私たち創価学会は、他者の悩みや苦しみに積極的に関わり、寄り添う姿勢を大切にしています。

私自身、学会活動を通して、さまざまな悩みに向き合う人と出会ってきました。メンバーの壮絶な悩みにどんな言葉を掛けていいかわからないときもありました。具体的なアドバイスはできなくても、一緒に祈り、寄り添い続けてきました。おそらく同じような経験を多くの学会員がしてきたと思います。

「他者への想像力」といっても、単に情報を知るだけでなく、自ら関わろう・わかろうという姿勢がないと育まれないと思います。今後、AIが普及する社会にあって、創価学会が大切にしてきた“おせっかい”な関わりは、ますます必要になってくるのではないでしょうか。

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