映画『君たちはどう生きるか』公開に思うこと 〜仏法と余白、そして未来への出発点〜

※本稿では若干、映画の内容に触れています。

この日をどんなに待ちわびたか、わかりません。
宮崎駿改め、宮〝﨑〟駿氏の監督作となるスタジオジブリ映画『君たちはどう生きるか』が先日公開になりました。

内容については、さまざまなレビューが飛び交っていますが、まず本作のタイトルそのものに、今を生きる人々をかり立てずにおかない大きな力があると思います。

とりわけ信仰を持つ私たちにとってこの問いは、日々の実践の中で切っても切り離せないテーマです。学会員として〝どう生きるか〟。ちょっと考えてみたいと思います。

規範としての小説『君たちはどう生きるか』

映画のタイトルの大元は、1937年に出版された小説『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎・著)。父を亡くした15歳の本田潤一少年(コペル君)が、叔父さんとの交流を通じて日々の不思議や悩みと向き合う物語です。

叔父さんはコペル君の父に代わり、1冊の「ノートブック」への手記を通して彼を導こうとします。コペル君は、生きる上での〝規範〟を得るわけです。

映画でもまた、本書の存在が主人公に大きな影響を与えます。
小説が出版された当時の子どもたちもそうであったように。

規範を持った人間が目前の出来事にどう答えを見いだし、切り開いていくのか。その〝一例〟を、宮﨑駿氏の世界観で私たちは垣間見ることになるわけです。

タイトル以外は余白?

一例。つまり映画の中身はあくまで宮﨑氏なりの『君たちは〜』であって、それぞれの『君たちは〜』は文字通り、タイトルと目が合った〝君〟がつくっていく。もはや、タイトル以外は全部余白くらいの〝委ねられた感覚〟を私は感じました。

まさに価値創造ってヤツです。
ただ何もない中で「とりあえず生きろ」とだけ言われても、困ってしまいますよね。

私たちの規範である仏法の根底には、「幸福」というデッカいテーマがあります。
今日、あすではとても答えの出ないような命題とぶつかることで、同時に〝なぜ自分は生きているのか〟という問いも湧いてくるのではないでしょうか。

そのもとに、時に悩み、もがきながら日々を歩む。私たちの生き方は人生というキャンバスにそれぞれの色を塗り重ね、「幸福」というタイトルの絵を描いていく作業と言えるかもしれません。

その色のつけ方は、10人いれば10通りあっていい。桜梅桃李(自分らしく)ですから。〝生きづらい〟とされる世界で与えられる正解ではなく、自分の歩んだ過程が新たな選択肢になる。そういう意味でも、私たちの哲学はとても余白にあふれていると思います。

〝争いの時代〟への言及

「基本的に子供たちに『この世は生きるに値するんだ』ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないと思ってきた」
(2013年9月7日付 日本経済新聞)

第2次世界大戦を題材にした、スタジオジブリ作品『風立ちぬ』公開時の記者会見で、宮﨑氏(当時は宮〝崎〟名義)はこう発言しました。

小説『君たちは〜』の出版時もまさに、日本がその戦争へと向かう渦中。このタイトルは、〝争いの時代〟の中で生まれたものなのです。

人類史は、争いの繰り返しと言えるかもしれません。
ただ技術や文化の発展の中で、武力に訴えずに生きる方途を模索してきたことも事実。厳しい検閲をくぐり、当時の子どもたちに届いたこのタイトルは、戦争のない未来への出発点として掲げられた、大人たちの願いでもあったのではないでしょうか。

学会のオリジン(原点)もまた、そこにあります。

初代会長・牧口常三郎先生は、「軍事的競争」の時代から「人道的競争」の時代への移行を訴えました。武力で争う時。それは、人々が未来を志向する〝余白〟を失うことでもあります。学会員の目指す幸福。その一歩は、身近な他者の余白を守ることから始まるのだと思います。

コペル君は、物語の中で叔父さんの言葉を頼りにしますが、それ以上にまず、叔父さんの存在そのものに安心や希望を見出していたのではないかと思うんです。他者の存在を隣に感じた時、人は初めて生きようと試みることができる。

〝隣の一人〟に──人類が、紛争をはじめ世界的な問題群と直面する今、未来は、お互いが〝人間なんだ〟という共通認識に立ち返って、それぞれの居場所を確かめ合うところから築かれていくのではないでしょうか。