私が地域防災の活動をやろうと思ったワケ〈上〉

本年9月1日は、関東大震災から100年となります。この節目に当たり、東京都をはじめ各自治体でも防災の取り組みが進められています。

私が住んでいる東京・新宿区には、「防災サポーター」という制度があります。これは、地域の防災訓練の支援や、防災の啓発活動を実施するとともに、いざ大規模災害が発生した際には避難所運営の支援や応急活動を担うボランティアです。私は昨年からこのサポーターに登録し、活動を行っています。

災害に遭ったこともなく、身の周りで災害が起こるなど想像もしていなかった私が、なぜ防災の活動をやってみようと思ったのか。その理由を上下2回に分けてつづりたいと思います。

津波想定34.4mの絶望

きっかけは、高知県にある黒潮町という地域の防災の取り組みを知ったことでした。

この町は、今後30年以内に70〜80%の確率で起こるとされる「南海トラフ巨大地震」が発生した際、想定34・4mという〝日本一高い〟津波が襲ってくると内閣府の中央防災会議が発表した町です。

その発表は「東日本大震災」が起きた翌年の、2012年。日本中が津波の恐ろしさを実感している中にあって、太平洋沿いにある人口約1万人のこの町の人は、いつ起こるか分からない災害と向き合わざるを得なかったのです。

町の行政は、防災の専門家にアドバイスをもらいながら、これまで津波避難タワーの建設や、避難路の整備など、できる限りの検討や対策を行いました。

しかし、高齢者を中心に〝いざとなったら、私はもう死んでもいい〟と、逃げることを諦めてしまうお年寄りの方が出始めてきてしまったのです。

この町の災害対策に携わる、災害研究者の片田敏孝氏は、著書『人に寄り添う防災』(集英社)で、避難を放棄する、ある70代の女性が詠んだ短歌を紹介しています。

「大津波 来たらば共に 死んでやる 今日も息が言う 足萎え吾に」

どんなに津波への対処を考えても、万全の対応策はなく、繰り返される避難訓練に参加しても、足腰の弱ったわが身をどうすることもできない。そんな絶望感の中で開き直るしかない心境と、母親の命を救いたいとの思いから〝母ちゃん訓練に行こうよ〟と言う、息子さんの声が聞こえてくるような短歌です。

諦めの気持ち変えた「命を思い合う心」

試行錯誤と諦めが入り混じる中、地元の小中学校では、徹底して防災教育を行うとともに、子どもたちが地域の一員として高齢者を気遣う声かけをはじめました。また、自主防災会では「地域から絶対に津波犠牲者を出さない」との決意で、高齢者に配慮した避難訓練を重ね、役場は一人一人の個別避難計画を立て、無理なく避難できる手立てを一緒に考えました。

そうした中、先の高齢者は、こう詠むようになりました。

「この命 落としはせぬと 足萎えの 我は行きたり 避難訓練」

避難を諦めていた姿勢を大きく変え、自分を思ってくれる家族や地域の人々に感謝しながら、避難訓練に参加する姿が目に浮かぶようです。

片田氏は、「死んでやる」とまで詠う気持ちを「この命 落としはせぬ」と一変させたものは、「命を思い合う心」だと思うとつづっています。

地域の子どもたちは気遣ってくれるし、行政も町民の命を守ることに躍起になってくれる。そこに自分の命も含まれているという実感。自分を大切に思ってくれる誰かがいることに気づいた時、人の心はこうも大きく動くのだということを、私は学んだのです。

そして防災サポーターに挑戦

そう思った時、私はふと、自らの地域を振り返りました。私自身も含め、住んでいるマンションの住民同士に、そんな思いやりがあるだろうかと。答えはノーです。

もちろん私自身、黒潮町の人と人の絆の麗しい部分しか見ていないことは分かっているつもりです。でも、それを差し置いても、隣の部屋に住む人の顔や名前も分からない現状で、はたして今後、そう遠くない未来に、必ず起こるといわれる大災害を乗り越えることなどできるのだろうかと思ったのです。

私が信仰する日蓮仏法では、「あなたが自身の安全を願うなら、まず周囲の静穏を祈るべきである」(新44・全31、趣旨)と、自身の安全を確保するためには、自分を取り囲む地域や国などの安穏のために行動すべきことを教えています。頭では分かっていても具体的な実践を起こせていない自分に気がつき、ハッとしました。

自分の挑戦で変えられるものがあるならやってみよう――その思いから防災サポーターを始めました。

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