「嫌なやつ→友だち→生涯の親友」
大学時代、アルバイト先の飲み会で、大勢の前で学会批判をされたことがありました。
「こいつ創価学会なんだよ。怖いよな」
バイトの同僚A君の、“学会=怖い”の根拠は何もなく、ふざけ半分の言葉でした。それでも、皆の前で言われたことにかなりショックを受けたのを覚えています。その後も同じシチュエーションになると、決まって批判してくるA君は、当時の自分からすればまさに“嫌なやつ”。「コイツとは絶対に仲良くなれない」。そう思っていました。
「祈る」と自分が変わり、相手が変わる
当時、私は、友人の影響で南無妙法蓮華経の題目を唱える“祈り”に挑戦しはじめたばかりでした。
自分の「願い」や「悩み」を祈っていると、ふとした瞬間にA君から批判されたことが頭に浮かんでくる。
腹が立つ感情をそのままぶちまけるように祈っていると、いつの間にか心が落ち着く。
そして、気づいた時には、「でもな。みんなの前では強がっているだけで、二人きりだと、気遣いもできて良いとこもあるんだよな……」
そんな風に心が変わっている。
“祈り”は本当に不思議です。
日常の“祈り”の中で、そんなことを繰り返しているうちに、いつも上から目線で私に接していたA君の態度が変わっていきました。
でも、よくよく振り返ってみると、知らず知らずのうちに、A君のことを嫌悪して避けていた自分の態度が変わっていたのかもしれません。創価学会でよく言う“自分が変われば相手が変わる”。まさにそれだったと思います。
気がついた時には、A君は、一緒にご飯にも行く“友だち”の一人になっていました。大学を卒業した後も、住む場所は離れてしまいましたが、お互い時間をつくって会う仲に。ベロベロになるまで二人で飲み明かしたことも、引っ越しの手伝いに駆けつけて、数百キロの道のりを一緒に車で走ったことも懐かしいです。
「お前のようなやつはいない」
もう5年ほど前の話になります。ある寒い日の夜遅く、A君と電話をしていました。他愛もない話をする中で、A君の声がいつもよりも暗いことが気にかかりました。
「なんか元気なさそうだけど、どうかした?」
「実は……」
過酷な仕事が原因で夜も眠れず、死ぬことも考えてしまっていると、打ち明けてくれました。
「また、会った時に話聞かせてよ」と電話は終わったものの、A君の思いつめたような声が頭から離れず、そのままに御本尊に祈りました。
祈るほどに居ても立っても居られなくなり、電話でA君に今から行っていいかと聞きました。タクシーでA君宅へ向かい、着いたのは午前3時。A君の話をじっくり聞き、翌日も一緒に過ごしました。
それから約1カ月後、A君から連絡があり二人で会うことに。居酒屋に入り、1杯目のビールが届いた時。大勢の人がいる中でA君は人目も憚らず号泣しました。
「お前のようなやつは絶対にいない。本当にありがとう。一生涯の親友だと思っている」
その言葉を聞いた時、私も泣けて仕方ありませんでした。“生涯の親友”。学会活動の中で、誰かのために祈り、何かの力になりたいと思える自分に変わっていなければ、ここまでの深い仲は築けなかったと思います。
「分かる人はちゃんと分かっている」
昨年来、ネット記事やSNSを中心に、創価学会への事実無根の誹謗中傷や、一方的な虚偽投稿を見かけることが多くなりました。
事実に基づく批判なら、それがまっとうであれば積極的に傾聴すべきだと思います。しかし、ウソやデマは絶対に許してはいけないし、間違っていると言っていかないといけない。そんなことを先日、母と話していた時、母がポロっと口にした言葉が印象的でした。
「学会はおかしな団体じゃないって、分かる人はちゃんと分かっているよ。学会員さん一人ひとりが地道に築いてきた信頼はそんなものじゃ壊れないよ」
本当にその通りだと思いました。
私自身、長年、学会活動をしてきて、創価学会への批判の多くは、その実像を知らないがゆえの偏見や誤解から生じていると感じています。
だからこそ、どうしても知ってもらいたい。それも、“誰か知らない人が書いたネット記事やSNS”ではなく、“身近な学会員さんとの日常の関係”の中で。
そのためにも、まず私自身から、積極的に人と触れ合い、友情を広げていきたいと思います。