〝御書が重い〟をラッパーに論破された話

新版御書の発刊から2年目。

中を開いて引く線がだんだん増えていくと、研さんの充実感が増します。
ただ、どうしても心の中で思ってしまうことが……〝ちょっと重い〟。分厚いので会合に持っていく時は、他の物とは別のカバンを私は用意します。

これまでの御書全集より文字が大きくなり、未収録だった御文だってある。
有名な要文が段落の初めに来るようになっているという工夫まで。素晴らしいこと尽くしな故に、重い。

この気持ちにどうにか決着を付けたいと思いつつも、しばらく電車で移動する時に御書の入ったカバンを手持ち無沙汰に右左と持ち替えてやり過ごす日々が続きました。

そんな時、ある歌手の話を耳にしました。
『美人』などメッセージ性の強い楽曲で、脚光を浴びるフィメール(女性)ラッパーのちゃんみな氏。あるインタビューでのこと。

帰国子女だったという彼女。
日本に帰国し、周囲とコミュニケーションをとるために最初に読み始めた本として取り出したのは「広辞苑」。

意思をちゃんと相手に伝えるために、フレーズの意味を調べていたそうです。
そこでちゃんみな氏の一言。

「言葉ってこれだけ重いから」

砕けた言い方をすれば、これにはかなり食らいました。物理的な重さを超えて、言葉そのものの持つ力を形容しているように思える。言葉で人の心を動かす者だからこそ出てくるパンチライン(決めゼリフ)を聴いた思いでした。

御書には、日蓮大聖人が門下へつづったたくさんの励ましがあふれています。
物理的には絶対的に測りきれない同志への〝思い〟が根幹にある。私のこの密かな悩みにも答えがあるのではと、御書をまた開いてみました。

「仏は文字によって衆生を救われるのである」(蓮盛抄、新762、全153、通解)

御書を開き、時に会合へ、メンバーのもとへ持っていく。それは信仰者の姿勢の一つとして、立ち返る〝根っこ〟を確かめることであり、相手を言葉で励ます気持ちの表れなのではないかと、反省した次第であります。

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