「宗教2世」議論を巡って

「宗教2世」議論を巡って

7月8日の安倍元首相の襲撃事件に端を発し、「宗教2世」を巡る言説が、ツイッターをはじめとするネット空間をにぎわせている。

例えば、「容疑者の母親が宗教団体の信者だった」→「教団に多額の献金をして家庭が崩壊した」→「教団に対する憎しみが犯行の動機になった」という事件の背景から、「宗教2世」の苦悩と生きづらさ……といった形で語られている。

はじめに指摘すべき点として、容疑者本人は教団の信者ではないと報じられている。つまり、2世ではない。この事件が「宗教2世」の問題として扱われることは、本来は筋違いである。

単純化された“2世像”“3世像”

とはいえ、実際に「宗教2世」というワードが注目を集め、根拠のない推論やデマも飛び交っていることは事実である。最近、創価学会についても、そうした語られ方をすることが増えてきた。

学会が取り上げられるとき、ある種の典型的な語られ方が見られる。例えば、学会員でない人の、「親の意志で入会させられた人は苦しんでいる」という語り。また、自身を「学会〇世」とする人の、「2世、3世の苦しみはなかなか理解されない」という語りなど……。

共通するのは、“2世像”“3世像”が、極端に単純化されているという点である。

幼少期に入会した2世、3世の入会が「親の意志」による入会であることは、ほとんどのケースで事実だろう。また、自身が2世、3世であることで嫌な思いをした人がいるのも事実だろう。

だが、多くの2世、3世の学会員は、一人一人が自らの意志で活動に励み、信仰の確信をつかみ取った原体験を持っている。“学会3世”の私自身もそうであるし、私が全国で出会った多くの学生部員もまた、そうである。

そうして自分の足で信心に立ちあがった体験は、“きっかけ”であった「親の意志による入会」よりも、大きな意味を持つものだ。

一方で、2世、3世の苦しみが語られるとき、それはいわば「個人の体験」である。その一つ一つは、家庭環境や職場、人間関係の悩みといった「個人の事情」が織り込まれた体験であり、ゆえに千差万別である。「宗教2世問題」などと一括りにしてしまうことは、そもそもできない。

「ディスり合い」を助長しがちな言論空間

にもかかわらず、ネット上ではこのワードに関して、根も葉もない憶測も、暴力的な言説も広がっている。これらは一度流行し始めれば、止めるのは至難である。短いフレーズでまとめようとするネットは、そのフォーマット自体が、「論破」や「ディスり合い」を助長しがちな言論空間だからである(月刊『Voice』5月号、西田亮介氏と山本昭宏氏の対談)。

しかし私たちは、ネットに登場する言説は、ノイジーマイノリティーと言われる、ごく一部のユーザーの声高な発信だという側面もあることを覚えておきたい。

むしろ、そうしたネットの空間においてさえ、例えばツイッターで「#私が学会活動する理由」といったハッシュタグが生まれ、2世、3世の学会員が、信仰を持って充実の日々を送る様子が発信されている。そうしたことも、「宗教2世問題」などといった漠たるイメージとは真逆の信仰の喜びが、一人一人に息づいている証左であると、私は思う。

御書に「受くるはやすく、持つはかたし」(新版1544ページ・全集1136ページ)と仰せである。学会員として生きる人生にも、悩みもあれば、逆境もある。1世であっても、4世・5世であってもである。

日蓮仏法は、どんな苦難をも必ず勝ち超えていけることを教える。私は、この希望の哲学を持って生きられることを喜びとして、「創価学会員でよかった!」「学会3世でよかった!」と言いながら日々を歩んでいきたい。

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