創価学会が公明党を支援する意義

創価学会が公明党を支援する意義

今夏に実施される参議院議員選挙において、創価学会は、比例区の公明党、ならびに全国の7選挙区で公認された公明党候補について、支持することを決定した。

地域などでのさまざまな出会いを通じて、縁した友人に公明党の実績や素晴らしさを語ることは、選挙が近付いているかどうかに限らず、多くの学会員にとって“日常”である。だが、時折、“なぜ、そこまで熱心なの?”と友人に問われることもある。

ここでは、創価学会が公明党を支援する意義について、改めて確認したい。

他者と関わるのが仏法者の生き方

日蓮大聖人の仏法は、「世界の平和」「万人の幸福」を目指す宗教である。“自分一人だけが救われればいい”といった利己的な生き方ではなく、他者と関わり、その悩みに寄り添いながら共に立ち上がる、「自利」と「利他」が一致した生き方(菩薩道)を説く教えだ。だからこそ学会員は、日々、他者の中に分け入って出会いを紡いでいる。

大聖人は、「一切衆生(世間の人々)のさまざまな苦悩は、ことごとく日蓮一人の苦である」(御書新版1056ページ・全集758ページ、通解)と仰せになり、民衆救済のために生涯をかけて戦い抜かれた。

その御精神を受け継ぐ学会も、「地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」との戸田第2代会長の言葉に象徴されるように、学会員一人一人がそれぞれの立場で、積極的に人と関わり、悩んでいる人の声に耳を傾けてきた。

「立正安国」と法華経

人々の苦悩を解決しようとすれば、必然的に、生活に深く影響を与える政治の分野に関わらざるを得ない。

鎌倉時代に生きた日蓮大聖人も、幕府の実質的な権力者であった北条時頼に「立正安国論」を提出し、“人々の不幸の原因は誤った思想にある”と指摘し、速やかに仏法の正しい教えを信受し、他の人にも広めていくべきであると厳しく諫められた。

「立正安国」は、「正を立て、国を安んず」と読む。

仏法の「正しい教え」を人々の胸中に打ち立てること(=立正)によって、社会の繁栄と平和(=安国)が実現されるという意味だ。

では、人々の胸中に打ち立てる「正しい教え」とは何か。大聖人は、法華経こそ釈尊の教えの中で最も優れた、人々が持つべき思想とされた。

その法華経の根本となる哲理が、「どんな人でも仏になれる」という教えである。

法華経以前に説かれた教えでは、“苦悩の原因である煩悩(=身心を煩わす心の働き)を滅して、何度も生まれ変わらないと仏になれない”“悪人や女性は成仏できない”等と説かれており、今世で幸せになれる対象が限定されていた。

それに対して、法華経では、全ての生命が本来、「仏界」を具えており、正しい修行の実践を通して、ありのままの姿の上に仏の生命を現すことが出来ると説いている。

この、誰もが差別なく、無限の可能性を秘めた尊い存在であるという「生命尊厳」の思想が、法華経の根底にある。

そして、「立正安国」とは、この仏法の生命尊厳の思想を広め、社会の根幹に据えることで、平和な世界や、安定的な人類の繁栄を築く挑戦にほかならない。

もちろんそれは、政治の分野に限ったことではない。平和、文化、教育、学術、経済など、社会のあらゆる分野における挑戦である。

「青年は心して政治を監視せよ」

1964年の結党以来、公明党は、「大衆とともに」の立党精神を高く掲げながら、社会的弱者に耳を傾けようとしない硬直的な政治体制に風穴を開け、社会の繁栄の陰で苦しむ人々の声に耳を傾け、政治に反映してきた。

全ての人が、等しく尊い存在であるとの、仏法の生命尊厳観を、政治において体現しているのが公明党なのである。

学会の政治支援活動がスタートしたのは、1955年4月の統一地方選挙。学会の文化部員54人が立候補した。

当時、金権政治がまかり通り、政治は腐敗・堕落していた。有権者の多くが政治に期待を持てず、関心も薄れていった。その結果、民衆のために働く政治家ではなく、大企業や大組織の労働者の利益ばかりを優先する政治家ばかりになっていたのである。

戸田第2代会長は、腐敗した政治は、物言わぬ青年の姿勢にあると厳しく指摘された。そして、「青年は心して政治を監視せよ」と叫ばれた。今の私たち青年部も、生命に刻む指針である。

愛する国に、地域に、民衆を見下すような政治家を出さない。庶民が立ち上がり、自分たちの手に政治を取り戻す――だからこそ学会は、政治に深く関わるのである。

一人一人の意識を啓発し、心ある人物を政界に送り出すことで、よりよい社会は築かれていく。

立正安国の精神に連なり、私たちは、草の根の「対話」をいよいよ加速していきたい。

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