平和のために―文化交流の灯を未来へ

平和のために―文化交流の灯を未来へ

音楽文化の向上や、音楽を通じた異文化交流を推進する「民主音楽協会(民音)」。

池田先生がその設立構想を示されたのは第三代会長就任の翌1961年2月9日だった。初のアジア歴訪のさなか、ビルマ(現・ミャンマー)も訪問される。

ビルマは、先生の長兄が、太平洋戦争で戦死した地。先生は、首都であったラングーン市内にある戦没者の慰霊碑に深い祈りを捧げられた。

“人類が悲惨な戦争と決別し、平和を築くには、何が必要か”――先生は思索を重ね、タイで同行の友に語られた。「真の世界平和のためには、民衆と民衆が分かり合うことが絶対に重要だ。特に芸術の交流が不可欠だと思う。これから国境を超えて進めたい」

そして2年後の1963年10月、平和への深い使命を帯びて、民音は誕生する。

池田先生は、世界各国の音楽・芸術に携わる識者と会い、友好の絆を結び、自ら先頭に立って異文化交流を推進されてきた。そうした行動の信念を、先生は世界最高峰のジャズプレーヤーであるハービー・ハンコック氏、ウェイン・ショーター氏とのてい談の中で、次のように述べられている。

「音楽は心を結ぶ。命を開きます。音楽ほど、いかなる差異も瞬時に超えて、魂の一体感を生み出し、互いに高め合っていけるものはないでしょう」
「音楽に脈打つ『結合の力』は、なんとロマン豊かに、なんと自由闊達に、生命と生命の共鳴を広げていくものでしょうか」

先生はこの信念を、民音を通して体現し、社会へ、世界へと発信され続けてきた。

世界各地から一流アーティストを招へいしたコンサートは累計8万回を超える。

日本の和太鼓や三味線といった伝統文化を紹介する「海外派遣事業」や、未来を担う子どもたちに音楽に触れる機会を届ける「学校コンサート」等も行ってきた。

とりわけ、“音楽の可能性を示した”とされる公演の一つに、「シルクロード音楽の旅」がある。

第1回公演の1979年から30年間で全11回行われたシリーズ。中国と欧州を結ぶ古代交易路「シルクロード」にゆかりのある国々から一流の音楽家を招き、日本各地で演奏を披露するというものだった。

当時は東西冷戦下。自由主義陣営と社会主義陣営が核兵器を向け合い、厳しい軍事的・政治的対立を続けていた。

平和を築くために、今こそ音楽の力を発揮する時――企画立案の段階では、シルクロードにどんな音楽があり、どんな演奏家がいるのか、見当もついていなかった。

民族音楽学の大家・小泉文夫氏に協力を仰ぎ、氏を団長とする調査団を結成。ソ連やモンゴル、パキスタン、インドなどに直接足を運んで研究を重ねた。

断崖絶壁の山を越え、炎天下の砂漠や高地を車でかき分け、各地の民族音楽を直接聴いて、公演のプログラムを組み立てていったのだ。

84年12月に行われた第3回公演では、緊張関係にあった中ソの演奏家が同じ舞台で共演。全シリーズで合計276回、20カ国300人を超える芸術家が海を渡り、日本のステージに立った。

舞台裏には、出演者同士の麗しい交流もあった。言葉は分からずとも、セッションで心を交わす中、友情が芽生えた。言語や人種、イデオロギーの差異を超えて、〝音楽への愛〟〝平和への願い〟という共通点を分かち合う。ツアーを終えてそれぞれの国に帰る際には、涙を流し、再会を誓い合う姿があった。

池田先生は民音設立の意義に触れ、こうつづられている。

「〝文化の力で世界を平和に!〟という願いなど、夢物語だと笑う人もいた。しかし私には、どこの国であろうと、そこに住んでいるのは、同じく平和を願う『人間』であるという確信があった。平和だから文化運動をするのではない。平和のために文化運動を断行するのだ」

コロナ禍にあって世界中で文化・芸術運動が制限を余儀なくされる中にあって、民音もコンサートの中止や、演出上の制限を設けざるを得ないこともある。しかし、感染状況を踏まえ対策を講じた上で、国内アーティストによる舞台や、「学校コンサート」の開催などを地道に続けてきた。

昨年秋には〝世界的指揮者への登竜門〟である「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」を実施。11・12月には、エストニア、ドイツ、チュニジア、ウルグアイのアーティストを招いてのコンサートを開催した。これまで誰も経験したことのない危機の中にあって、〝人類の宝である文化を守る砦〟としての使命を堂々と担っている。

第二代会長・戸田城聖先生の「この世から〝悲惨〟の二字をなくしたい」との決意を、池田先生が自らの誓願とし、行動されてきた結晶ともいえる民音――。設立の構想から61年、日本を代表する音楽団体として広く認められるようになった歴史を振り返り、創価の師弟の平和闘争に連なる誇りと使命を自覚していきたい。

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#平和 #文化

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