9・8『原水爆禁止宣言』に思う“知る”ことの価値
広島市の平和記念公園で、ボランティアガイドの方が教えてくれた。「ここの地面は、他よりも少し高いんです」
原爆投下前、商店や住居がひしめく市内有数の繁華街だった。「旧中島地区」と言う。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分――同地区の北側にある相生橋を目標に、原子爆弾が上空約600メートルで炸裂。放たれた爆風が家々をなぎ倒し、熱線を浴びた人々は黒焦げとなった。
焼け野原と化した街は戦後、約15センチから40センチほどの盛り土がされ、被爆9年後の57年(同32年)に公園が建設。当時の面影は消え去った。
だが発掘調査を行うと、食器のかけらや家財道具とともに、多くの遺骨が今も掘り出されると言う。
「私たちが立っている公園の下には、多くの人々が今も眠っている。平和な暮らしを、罪のない人々の幸せを原爆は奪った。その痛みを“知って”ほしい」。ガイドの方が語ってくれた“知る”とは、単に知識や情報を得ることだけにとどまらないのだと感じた。
創価学会第2代会長・戸田先生は、57年(同32年)9月8日に「遺訓すべき第一のもの」として、「原水爆禁止宣言」を発表した。
「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」
核兵器をサタン(悪魔)の産物であると言われたのはなぜか。
仏法では、善も悪も一人の生命に具わる「善悪一如」を説く。生命に具わる根源的な無知(元品の無明)から他者への生命軽視や人間不信が生まれ、人類を何度も滅ぼすほどの兵器が生まれた。
恩師は、核兵器を容認する思想こそ、心の奥底に潜む生命軽視によるものであると断じ、核兵器を生んだ「生命の魔性」という“見えざる敵”との妥協なき闘争を青年に託したのである。
核兵器を人間が生み出したものであるならば、自身の中に具わる「元品の無明」を打ち破る中にこそ、廃絶の道はある。
この悪性に反するものが「元品の法性」である。私たちに具わる根本の覚りの生命を指す。自身にも他者にも、等しく仏性があることを“知る”。それは粘り強い対話の中で、自他共の生命に見いだすことができる。
中国学生部では、大学生などを対象に平和意識を調査するアンケートを実施してきた。
コロナ禍の本年は、感染拡大防止のためにネット入力形式だったが、これまでは「一対一の対面形式」で行い、第26回を数える。
結果の一部を述べると、「核兵器を廃絶することは可能だと思いますか?」との問いには、「可能」が20%にとどまった。
その一方、「今後、核兵器の使用がありうると思いますか?」との問いに、「必ずある・ありうると思う」が76%となり、将来の核使用を懸念する実態が浮き彫りになった。
ただ、回答を得ることの他に、メンバーに共通する意識があった。それは、アンケートを通して、自身や友人らの心を変え、平和や核兵器廃絶に対する意識を互いに高め合うこと。アンケートの実施結果のみならず、“対話すること自体”に大きな意味があった。
広島市立大学・大芝亮特任教授(広島平和研究所所長)は、「アンケートを通じて対話している。これが平和のための活動だと思う。アンケート自体が平和意識の向上につながっています」と高く評価する。
本年8月6日、広島平和記念公園で行われた記念式典で児童代表が発表した「平和への誓い」にある。
「本当の別れは会えなくなることではなく、“忘れてしまう”こと。
私たちは、犠牲になられた方々を決して忘れてはいけないのです。
私たちは、悲惨な過去をくり返してはいけないのです」
あの歴史的な宣言から2カ月後の同年11月、体調を崩された戸田先生は、命懸けで広島訪問を断行されようとした。だが、病状は好転せず、断念せざるを得なかった。
核兵器は必要悪ではなく、“絶対悪”――この恩師の叫びを、被爆者の痛みを永遠に忘れてはならない。
恩師の遺訓を時代精神に高めるため、青年部は「一対一の対話運動」を貫き通していく。
互いの仏性を“知る”中にこそ、平和を創造する価値創造の道があるからだ。