〝覚醒〟のヒント 2023年11月度座談会拝読御書「寂日房御書」
創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。
こんにちは!11月度担当のむさしです!
この前、漫画やアニメが好きな友達と食事をしていた時に、今まで読んだり見たりした中で、特に好きな作品の好きな場面は何か、ということが話題になりました。
みなさんは、いかがでしょうか?
私は、登場人物が何らかのきっかけで、人間的に大きく成長したり、生き方がより良く変わっていったりする様子が、上手に描かれているシーンが好きなんです。
振り切って言ってしまえば、〝覚醒〟する場面です。
短所が長所になったり、眠っていた能力が発揮されたり、あるいは、平凡だと思われていたキャラが実はすごい人だったり……というような。
仕事でもなんでも、今いる場所で思う存分、自分の力を発揮できるといいなぁ、とつくづく思います。
今回は、そのための〝覚醒〟のヒントを学んでいきます!
拝読御書について
「寂日房御書」は、1279年(弘安2年)9月16日、日蓮大聖人が58歳の時に身延(山梨県)で記されたお手紙です。安房(千葉県南部)方面に住む門下に宛てたもので、弟子の寂日房に託されました。
宛先の門下について、詳しいことは分かりません。御書の内容に基づけば、大聖人のご両親と何らかの関係があり、また大聖人から何度も励ましを受け、御本尊(注1)も授与された女性門下と考えられます。
(注1)御本尊
本尊の尊称。信仰・修行の根本として尊崇する対象。特に絵画や立体像として制作された仏・菩薩などの像や、仏・菩薩などが集合する世界観を図顕した曼荼羅[まんだら]をいう。日蓮大聖人が図顕された御本尊は、南無妙法蓮華経の文字曼荼羅である。
お手紙では最初に、私たちが人間として生まれることさえ、まれなことであるのに、仏法と巡り合い、ましてや法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱え、実践できることは、どれほど幸福なことであるかを述べられています。
そして、大聖人はご自身が、万人成仏の法である南無妙法蓮華経を行じる「法華経の行者」として、また、法華経の釈尊が教えを託した上行菩薩(注2)の使いとして、妙法を流布するために生きてこられたと記されています。
(注2)上行菩薩[じょうぎょうぼさつ]
地涌[じゆ]の菩薩を代表する四菩薩[しぼさつ]の筆頭。『法華経』如来神力品では、末法における正法弘通が上行をはじめとする地涌の菩薩に付嘱[ふぞく]された(託された)。この法華経の付嘱の通り、末法の初めに出現して南無妙法蓮華経を万人に説き不惜身命で弘通されたのが、日蓮大聖人であられる。
その上で、門下に対して次のように呼びかけられました。
師匠との「宿縁」
本文
かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思って、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といわれぬること、はや不祥なり、まぬかれがたき身なり。
(御書新版1270ページ1行目~2行目、御書全集903ページ7行目~9行目)
意味
このような日蓮の弟子檀那となる人々は、宿縁が深いと思って、日蓮と同じく法華経を弘めるべきである。(末法の悪世で、あなたたちが)法華経の行者と言われていることは、もはや(世間の基準からいえば)不運なことであり、免れがたい身である。
大聖人は、ご自身が法華経の行者として生き抜いてこられただけでなく、門下たちにも同じく法華経の行者として生きていくよう、勧められています。
「宿縁」の「宿」とは過去世という意味ですので、生死を超える深い縁によって、今世で南無妙法蓮華経を実践しているからこそ、大聖人と同じ心で教えを弘めていきなさいと呼び掛けられています。大聖人と門下の間には、過去世からの、とても強い絆があることを明らかにされているのです。
そして「もはや不運なことであり、免れがたい身である」との言葉は、少しドキッとしますよね。
法華経に書いてあるのですが、法華経の行者として生きていくには、さまざまな困難が伴います。だから、世間の視点からすれば、法華経の行者であることは不運なことであると思うかもしれないと、大聖人は門下の心情を推察されているのです。
しかし、仏法の眼からは、まったく違って見えます。南無妙法蓮華経は、自分自身はもちろん、あらゆる人々を成仏させる最高の教えです。たとえ困難が襲ってきたとしても、信仰を根本に立ち向かうことで成長し、自他共の幸福をつかみとっていける実践です。これほどの誉れはないという大いなる確信が、このお手紙には込められています。
もはや「免れがたい身である」から、尊い使命を自覚した生き方を望まれた大聖人。でも、いかに期待が大きくても、結局そう思えるかどうかは、その本人次第ですよね。なので、「免れがたい身である」と思うことは、「あきらめる」ことだと思います。
「あきらめる」とは本来、何かを途中で断念することではなく、“明らかに見る”こと。最後は、自らの使命を自分自身が明らかに見つめ、自分自身が覚る(=自覚する)。この時にはじめて、本当の“覚醒”はやってくるのではないでしょうか。
自分のすべきこと
将棋界で史上初の8大タイトルを制覇した藤井聡太八冠。6年前、プロ入り当初15歳だったときのインタビューが再び注目されています。
「生まれてきたのは将棋を指すためだと思いますか?」との質問への答えは、「……将棋を指すために生まれてきたかは分からないですけど、将棋に巡り合えたのは運命だったのかなと思いますし、将棋を突きつめていくこと、強くなることが使命……使命までいくかわからないですけど、自分のすべきことだと思います」(「将棋世界」2017年5月18日付)。
“自分の生まれてきた意味”、“人生でなすべき使命”を見つけるのは、なかなか難しいことかもしれません。しかし、そんなに大きなスケールではなくても、“自分のすべきこと”に巡り合えた実感をもてたり、あるいは、どうせなら思い切って覚悟を決めて物事に挑戦できたりすれば、悔いなく自分の力を発揮できますよね。
私も、あるプロジェクトの責任者を務めることになりました。メンバーとの会議の日程調整はもちろん、業務分担、進捗管理などを重ねるなかで、プロジェクトが軌道に乗ってくると、自分のやるべきことを果たしている実感があり、とてもやりがいを感じています。
池田先生は、若者が力量や長所を発揮するために大切なこととして、次のように記しています。
「最も重要なことは、使命に目覚めることではないでしょうか。(中略)その自覚のもと、人生の目標を定めて、月々日々の課題に挑戦していくことだと思います。自分の使命を知るならば、何事に対しても、生命の奥深くから、意欲が、情熱が、力が湧いてきます」(『新・人間革命』第27巻「求道」)
自らの「道」を明らかに見て、使命を自覚すれば、自信をもって進めます。それが思う存分に力を発揮できる、〝覚醒〟の第一歩なのではないでしょうか。
御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。
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