仕事は修行? 2023年7月度座談会拝読御書「檀越某御返事」

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

こんにちは!7月担当のむさしです!
もうすぐ夏休みですね(子どもたちの)。

わが家には子どもがいます。毎年、夏休みの最初は、つらいものです。

「え~っ! パ~パ~、おしごとい~く~の~!? どうして~? あそばないの~?」

容赦なくハートを射抜いてくる、つぶらな二つの瞳。「じゃあ、休んじゃおっか~」と言いたくなります(が、ぐっとこらえます)。そして、職場への道すがら、ちょっと考えます。

さて、私は、どうして仕事に行くのでしょう?

家族を支えるため?
社会に貢献するため?
自己実現や成長のため?
そもそも国民の義務だから?

今月の座談会拝読御書は、仕事の捉え方を学ぶ一節です。

拝読御書について

「檀越某御返事」は、1278年(弘安元年)4月11日、日蓮大聖人が57歳の時に、身延で書かれたお手紙です。

「檀越」とは「在家の有力門下」のことであり、題号は「ある在家の有力門下への御返事」という意味です。誰に宛てられたものか、どのような背景があったのかなど、詳細は分かっていません。ただ、お手紙の内容を踏まえれば、その門下は、鎌倉幕府の動きをよく把握していて、「宮仕え(みやづかえ)」をしていることが分かり、主君に仕える武士の身分であったと考えられています。

大聖人は、ご自身に対して、伊豆流罪・佐渡流罪(注1)に続く3度目の流罪の動きがあることを知らされたようです。しかし、法華経を弘めることによって迫害に遭うことは、末法の法華経の行者(注2)である何よりの証明になるとされ、大聖人は「百千万億倍のさいわい(幸)なり」(御書新版1718ページ、御書全集1295ページ)と仰せです。大聖人の、悠然とした御境涯を拝することができます。

(注1)伊豆流罪・佐渡流罪
伊豆流罪は、日蓮大聖人が1261年(弘長元年)5月12日から、約2年弱にわたり、伊豆国伊東へ、不当に流罪された法難のこと。
佐渡流罪は、1271年(文永8年)、不当に佐渡へ流刑された法難。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中、「開目抄」や「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、門下たちに励ましの書簡を多数送られている。

(注2)末法の法華経の行者
末法とは、仏の滅後、その教えの功力が消滅する時期をいう。
法華経の行者とは、法華経をその教説の通りに実践する人。

そして、門下が置かれている状況を踏まえた上で、大聖人は、“私から諸仏や諸天善神(注3)に守護をお願いします”と仰せになり、その後に続く御文が、今回の拝読範囲です。

(注3)諸天善神
正法を受持する人とその国土を守護する種々の神々。「諸天」とは天界の衆生をいい、「善神」は正しい生き方をする人を支え守るものをいう。一定の実体をもつ存在ではなく、正法を実践する人を守護する種々の働きをいう。

信仰と社会の関係とは

本文

さておわするこそ、法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ。あなかしこ、あなかしこ。
御みやづかいを法華経とおぼしめせ。「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」とは、これなり。

(御書新版1718ページ11行目~1719ページ2行目、御書全集1295ページ7行目~8行目)

意味

そのようにおられることこそが、法華経を昼夜にわたり修行されていることになるのです。くれぐれもよく心得なさい。
日々の出仕を法華経の修行であると思いなさい。「あらゆる一般世間の生活を支える営み、なりわいは、全て実相(妙法)と相反することはない」と説かれているのは、このことです。

語句の説明

・十二時(じゅうにとき)
一昼夜のこと。当時は1日が12の時刻に区分されていた。
・みやづかい
貴人の家に仕えること。主君・主家に仕えること。
・「一切世間の~相違背せず」
天台大師が著した『法華玄義』からの引用。法華経法師功徳品の文を解釈している。
・治生産業(ちせいさんぎょう)
生活を成り立たせ支える営み、なりわい。
・実相(じっそう)
ありのままの真実のすがたのこと。

冒頭の「そのようにおられること」とは、この直前の御文に門下の状況を思いやる言葉を記されているので、門下の仕事などの姿勢をたたえたものと推察できます。それは「法華経を昼夜にわたり修行されている」ような姿です。

一日まるごとが法華経の修行ですので、毎日、主君に仕えている仕事も、そのまま法華経の修行と思いなさいと励まされているのです。その裏付けとして、日々の生活を支える営みすべてが、実相と矛盾しないという天台大師(中国)の言葉を引用されています。実相とは、真実の姿、究極の真理のことであり、日蓮大聖人の仏法においては妙法蓮華経のことです。

社会の営みが実相=妙法蓮華経と反しないということは、大きな意味で、信仰実践の中に社会の営みも包み込まれていることを意味します。この社会の営みとは、なすべきこと、果たすべき役割であり、仕事だけを指すものではありません。家事や子育て・介護、さまざまなスキルアップの挑戦など、日常のあらゆる営みが含まれますし、子どもなら勉強やクラブ活動なども当てはまるでしょう。

一般的に、信仰は日常から離れた行為とイメージされがちです。神社・仏閣などに非日常的な癒しを求める人も多くいますよね(いわゆるパワースポット的な)。日蓮大聖人の仏法では、「信仰は信仰、日常は日常」というように別物として切り分けることはしません。でも「仕事の場で信仰を持ち出して…」というのでもありません。

信仰は、私たちの内面を成長させるものです。その具体的な実践の舞台が社会であり、その行動によって実生活を充実させていくものです。そして社会において「なくてはならない人」になれるよう、貢献することを目指しています。

仕事を義務感だけでやると、つらいですよね。逃げたくなる場面がいっぱいありそうです。でも、自己実現や成長のため、家族を支えるため、そして社会に貢献するためと考えられれば、少々大変なことがあっても前向きに立ち向かっていけるのではないでしょうか。日蓮大聖人の仏法は、仕事をより深い次元で捉えていく信仰です。

今いる場所を大切にする生き方

今回の拝読御書からは、仕事とは、①信仰を鍛える実践の場であるとともに、②信仰の力を発揮する活躍の場であると捉えられます。

ある創価学会の男子部員は、この御書の一節を毎朝、拝読してから出勤しているそうです。以前、仕事で落ち込んだ時にこの言葉と出会い、「業務への意識が変わった」と言っていました。目の前の仕事の一つ一つが仏法の実践そのものなんだと捉え、誠実に取り組むと、不思議と、より大切な仕事も任されるようになっていったそうです。

池田先生は、檀越某御返事の一節を通して、次のように語っています。

「『今』『ここで』最高の価値を創造していく。そのための信心です。『いつか』『どこかにある』理想郷に行く――。それは妙法ではありません。(中略)大聖人の仏法は現実変革の『生きた宗教』です。ゆえに、仏の異名を『世雄』(社会の英雄)ともいうのです」(『御書と青年』)

現実にきちんと向き合い、いま自分がいる足元を大切にする。これが信仰をもとにした、私たちの生き方です。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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