真実を見極める情報術―言葉の盲信に注意せよ

前回の記事「なぜ不確かな情報に惑わされるのか?」では、人は、ある意見や情報について、その「確かさ」ではなく、「どのような人の発信なのか」、また「どれほど多くの人々が発信しているのか」に引き付けられる(つまり、根拠のある正しい情報かどうかはあまり考えずに情報の取捨選択を行っている)という、日蓮大聖人の洞察を取り上げました。

たくさんのご感想を寄せてくださり、まことにありがとうございます!こんなコメントもいただきました。

SNS時代になってデマや怪しい情報の問題が表面化しやすくなったように思います。

日蓮大聖人の立正安国論の引用を読むに、いずれの時代も同じように偽情報を信じ込んでしまうのだと思いました。

情報の真偽や正確さをどのように確認するかが大事ですね。

ライトマン✨ @EizNakanoPhoto

ここでも言われている通り、私たちはどのようにして、受け取った情報の「確かさ」を確認し、発信する情報の「確かさ」を高めていけば良いのでしょうか(この「確かさ」とは信頼・信用できる度合いとします)。

そこで今回は、日蓮大聖人が示された、仏法における正しい教えの判断基準――文証・理証・現証を取り上げます。この三つ(三証)は、情報が氾濫する社会を生きる私たちにとって、不確かな情報にいかに惑わされないか、説得力をもって自らの意見を伝えるにはどうすれば良いのかなどの点でも、とても示唆に富んでいます。

文証

第一に文証とは、主張のよりどころとなる経文等のことです(御書では「証文」などとも表記されています)。

本文

愚者と申すともいやしむべからず、経論の証文顕然ならんには。

(御書新版14ページ・御書全集10ページ)

意味

私たちのような末代の愚者であっても、賤しむべきではない。経典や論書の証文が明らかであるならば。

仏法を論じるに当たっては、その人物の立場などではなく、主張のよりどころ(証文)によって判断すべきであるという意味です。文証を重んじる大聖人の態度は、代表的な著作である「立正安国論」(注1)からもうかがえます。

(注1)立正安国論
1260年(文応元年)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、鎌倉幕府の実質的な最高権力者である北条時頼(前執権)に提出された国主諫暁の書。飢饉・疫病・災害などの根本原因は謗法(正法への誹謗)であると明かし、正法に帰依しなければ、経典に説かれる三災七難のうち、残る「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(外国からの侵略)」が起こると予言。しかし幕府はこの諫言を用いることはなかった。二難はそれぞれ1272年(文永9年)の二月騒動、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の蒙古襲来として現実のものとなった。

「立正安国論」の宛先は北条時頼。当時、時頼はすでに執権を退き、出家に近い形で仏門に入っていましたが、幕府への影響力を保持していました。つまり時頼は、大聖人からすれば、仏法の知識や素養がありつつ信仰観を異にする為政者と言えるでしょう。そうした相手に対して、大聖人はどのように主張を展開されたのでしょうか。

そこで大聖人が重んじられたものこそ文証でした。『金光明経』『大集経』『仁王経』『薬師経』『涅槃経』『法華経』などを何度も引用されている点に、それは明らかです。時頼が理解し、納得できるようにと、互いに共通して信頼を寄せる仏の教え――経典を論拠として繰り返し示されたと言えます。

ただし、とりあえず文証を提示すれば良いというわけではありません。大聖人は別の御書で、「慥(たし)かなる証文」(御書新版829ページ・御書全集119ページほか)、「分明なる証文」(御書新版830ページ・御書全集120ページほか)が大切であると述べ、誤った主張を批判されています。

実際に「立正安国論」では法然の主張を批判されていますが、その特徴について、「私に云わく」(御書新版31ページ・御書全集22ページほか)、「私曲の詞」(御書新版35ページ・御書全集25ページ)等と表現され、自分勝手な解釈である問題点を指摘されています。だからこそ大聖人は、多くの経典を引用した上で、「経文は顕然なり。私の詞何ぞ加えん」(御書新版41ページ・御書全集29ページ)と述べて、経文の意味ははっきりしているのだから、自分勝手な解釈をなぜ加えるのかと法然を批判されたのです。

別の御書では、「少し自義に違う文有れば、理を曲げて会通を構え、もって自身の義に叶わしむ」(御書新版394ページ・御書全集45ページ)と述べ、意図的に文意をねじ曲げて、自身に都合の良いように用いる者がいたことを挙げられています。

このように、文証においては、単に経典等を証拠として挙げるだけでなく、それらを正しく理解していることも求められます。

現代の私たちにとっても、ある意見や情報に対して、きちんと根拠となる文証やデータがあるのかという点はもちろん、できる限り多くの人々が信頼を寄せる情報源に基づいているのか、勝手な解釈によって本来の意を曲げていないかという視点が求められます。

理証

第二に理証とは、筋の通った論理によって証明することです(御書では「道理」などと表記されています)。言い換えると、みんなが「その通りだ」と思えるロジック、ということになるでしょうか。大聖人は、次のように、文証と合わせて道理を重んじるべきであると示されています。

本文

人の多くおもうにはおそるべからず、また時節の久・近にも依るべからず、専ら経文と道理とに依るべし。

(御書新版1185ページ・御書全集883ページ)

意味

多くの人が思っているからといって、おそれてはいけない。また、その教義が立てられて年を経ているとか、新しいとかに依るべきでもない。ただ経文と道理とに依るべきである。

大聖人は「立正安国論」を執筆するに当たっても、「世間の体を見て、ほぼ一切経を勘うるに、御祈請験無く還って凶悪を増長するの由、道理・文証これを得了わんぬ」(御書新版47ページ・御書全集33ページ)と述べられています。自然災害や飢饉、疫病などに襲われる世間の有り様について、諸宗派が祈祷を行っているにもかかわらず、なぜ効果がなく、かえって悪化しているのか、一切の経典を読む中で浮かび上がってきた道理と文証を示されたのが「立正安国論」です。

一方、大聖人は、門下に対して仏法の教えを分かりやすく説く際に、たびたび世間の道理を用いられています。

たとえば、今年3月の座談会拝読御書である「妙一尼御前御消息(冬は必ず春となるの事)」では、妙一尼に対して、苦しいことがあっても信仰を貫き通していけば必ず成仏できることを、『法華経』方便品の引用とともに、「冬は必ず春となる」という明らかな自然の道理によって示されています。相手が理解しやすいように説明された大聖人の真心が伝わってきます。

また大聖人は、「仏法と申すは道理なり」(御書新版1590ページ・御書全集1169ページ)、「世間・仏法の道理によるべきなり」(御書新版1434ページ・御書全集1056ページ)とある通り、仏法とは道理を説いたものであり、仏法は世間の道理と矛盾するものではないことを強調されています。

現代の私たちにとっても、ある意見や情報に対して、みんなが理解しやすい筋の通った論理があるのか、世間の道理と整合しているのかという視点が求められます。

現証

第三に現証とは、実際に現れたものごとの証拠です。文証と理証を明らかに示したとしても、あらゆる人々がその主張に納得するわけではないかもしれません。そこで大聖人が最も重んじられたのが、この現証です。

本文

日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また道理・証文よりも現証にはすぎず。

(御書新版1941ページ・御書全集1468ページ)

意味

日蓮が仏法の勝劣を判断しようとするのに、道理と証文以上に大切なものはない。さらに、道理・証文よりも大切なのが現証である。

大聖人は仏法の正しさを判断しようとする際に、まず大切なのは道理と証文であるとした上で、それらよりも現証が肝要であるとされています。この三証の関係は、大聖人の論述方法からもうかがうことができます。

たとえば、大聖人は「観心本尊抄」において、なかなか理解しにくい十界互具(注2)の法理――地獄界という最低の境涯から仏界という最高の覚りの境涯までもが自分自身にそなわること――を、段階を踏んで説かれています。

(注2)十界
衆生の住む世界・境涯を10種に分類したもの。仏法の生命論では人間の生命の状態の分類に用いる。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。
また、十界の各界の衆生の生命には、次に現れる十界が因としてそなわっていることを十界互具という。この十界互具によって九界と仏界の断絶がなくなり、あらゆる衆生が直ちに仏界を開くことが可能であることが示された。

まず、文証として『法華経』のさまざまな文を引いて、十界の一つ一つの界に十界がそなわることを示されます(御書新版125ページ・御書全集240ページ)。

仏の教えであったとしてもそんなことは信じられないという意見に対して、大聖人は分かりやすく、他人の表情を通して「ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は平らかに、ある時は貪り現じ、ある時は癡か現じ、ある時は諂曲なり」(御書新版127ページ・御書全集241ページ)と述べられています。実際に現れる感情などを通して十界のうち六道を説明されたのです。

残りのうち声聞界・縁覚界(二乗界)と菩薩界については、「試みに道理を添加して万が一これを宣べん。いわゆる、世間の無常は眼前に有り。あに人界に二乗界無からんや。無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」(同ページ)と述べて、道理を用いて説明されます。

そして、仏の覚りの境涯である仏界は極めて説明しにくいところを、凡夫が法華経を信じるという姿をもって仏界がそなわる証しとされ(同ページ)、さらに他の例も引いて「現証をもってこれを信ずべきなり」(御書新版129ページ・御書全集242ページ)と述べられています。

つまり、教えを文証で示せても簡単には理解できないので、文証だけでなく道理を通して説明し、さらに現証によって理解に導こうとされました。主張の正しさを、何よりも証明するのが現証なのです。

現代の私たちにとっても、ある意見や情報に対して、はたして現実にそうなのか、実態とかけ離れていないかという視点が求められます。

納得と共感をもたらす三証

文証が不十分であれば、その主張は信頼できず、根拠のないデマと等しくなります。勝手に論拠の意をねじ曲げているなど、あってはなりません。

理証が不十分であれば、その主張は理解しにくいものとなります。論理の飛躍があったり、世間の道理に反していたりすれば、なおさらでしょう。

現証が不十分であれば、その主張は机上の空論です。実際に現れた証拠がほとんどない、あるいは実証の可能性が低い場合、現実味がありません。

不確かな情報に惑わされないために、この三証の視点は大きな意味をもちます。情報を発信する側なら、なおさらです。仕事や学業、日常生活にあっても、自分の主張に確かさと説得力をもたせ、広く納得と共感を得るために、三証の考え方はとても有益ではないでしょうか。

大聖人が人間と社会の本質を洞察された“御書のまなざし”は、21世紀の今、大切な視点を問いかけています。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

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