進むか退くかの境界線 2022年5月度座談会拝読御書「開目抄」
創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。
5月度担当のひろかつです!
突然ですが、質問です。思いもよらない人生の一大事が身に起こったとします。事故、病気・ケガ、仕事や経済的な損失、災害などなど。そんな時、どうしますか?
たとえば、家族、親友などに報告・相談したり、行政や社会からの支援を探したりしますよね。身近なところで、できることから解決へ踏み出そうとする人が多いと思います。でも状況によっては、あきらめて自暴自棄になったり、落ち込んで無気力になったりする人もいるかもしれません。
いざという時に、その人の考え方や価値観があらわれる気がします。自分が頑張って挑戦してきたことで不本意な状況になった時や、もっと身近なことで言えば、スポーツやゲームのピンチの場面もそうでしょう。
今回の拝読御書は、日蓮大聖人と弟子たちが、信仰を実践する中で起こってきた最大の苦境の際の一節です。私たちが生きていく上での大切な姿勢を学ぶことができます。
拝読御書について
「開目抄」は、1272年(文永9年)2月、日蓮大聖人が51歳の時に執筆され、弟子の四条金吾に託して門下一同に与えられました。四条金吾は鎌倉で暮らしていた武士であり、大聖人の弟子の中でも中心的人物でした。
「開目抄」を執筆された当時、大聖人は佐渡流罪(注1)の渦中でした。佐渡は極寒であり食料も少なく、いつ敵が襲ってきて命を失うかも分からないような、きわめて過酷な環境にありました。
(注1)佐渡流罪
日蓮大聖人が1271年(文永8年)、不当に佐渡へ流刑された法難。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中、「開目抄」のほか「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、門下たちに励ましの書簡を多数送られている。
また、大聖人と同じく、弟子たちにも不当な弾圧が及び、投獄・追放・所領没収などの迫害を受けました。多くの弟子が耐えかねて、信仰を捨てていく中、大聖人がご自身も命に及ぶ苦境にあるにもかかわらず、世間からの批判や、動揺する弟子たちが抱いた疑問に答えて筆を執られたのが「開目抄」です。
その批判や疑問とは何でしょうか? 『法華経』という正しい教えを実践しているのに、なぜ諸天善神(注2)が守護してくれないのか、ということでした。苦難に直面した弟子たちは、信仰と大聖人に不信感を抱いてしまったのです。
(注2)諸天善神
正法を受持する人とその国土を守護する種々の神々。「諸天」とは天界の衆生をいい、「善神」は正しい生き方をする人を支え守るものをいう。一定の実体をもつ存在ではなく、正法を実践する人を守護する種々の働きをいう。
大聖人は「開目抄」で、正しく信仰を実践すれば三類の強敵(注3)による迫害が起こるというのが『法華経』の教えであり、その通りの難に遭っている大聖人は、真の法華経の行者であることを説明されます。その上で今回の拝読箇所は、成仏を目指す根本の姿勢を訴えられている一節です。
(注3)三類の強敵
釈尊の滅後の悪世に『法華経』を弘通する者に迫害を加える人々。『法華経』勧持品に説かれ、中国の妙楽大師湛然が3種に分類した。①俗衆増上慢(仏法に無智な在家)、②道門増上慢(僧侶)、③僭聖増上慢(聖者のように仰がれている高僧)。
逆境に負けない心を
本文
我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。
(御書新版117ページ7行目~・御書全集234ページ7行目~)
意味
私ならびに私の弟子は、諸難があっても、疑う心がなければ、自然に仏界に至ることができる。諸天の加護がないからといって、疑ってはいけない。現世が安穏でないことを嘆いてはいけない。
語句の説明
・「天の加護」
法華経の行者を守ると誓った諸天善神の加護のこと。
・「現世の安穏」
『法華経』薬草喩品には、妙法を信受する人は、現世で安穏な境涯を得ると説いている。
苦難が押し寄せてきた時に、疑う心を起こさず信仰を貫き通せば自ずと成仏(注4)できるのだから、諸天善神の守護がないことや、人生が穏やかでないことを嘆いてはいけないと仰せです。苦難が起こるのは、経典に書いてある通りだからです。
(注4)成仏
仏法の信仰の根本的な目的。『法華経』では、万人に仏界(仏の覚りの生命境涯)がそなわっていることを明かしており、この仏界を開きあらわすことで、この身のままで直ちに成仏できることが説かれている。日蓮大聖人の仏法の成仏観は、この一生成仏である。
また、この御文の前では、ある譬喩が紹介されています。それは『涅槃経』に説かれる貧女の譬えです。貧しい女性が、さまざまな苦難に見舞われながらも、自分の子を手放さなかった慈悲によって、死後は、より清らかな場所に生まれたという物語です。女性が慈悲の心を貫くことによって、自身が求めていないような大きな利益を得たことを表しています。
大聖人はこの譬喩を通して、南無妙法蓮華経を受持し抜けば、求めずして成仏の境涯に必ず至ることを訴えられています。だからこそ、苦難に直面しても疑いを起こさず、信仰を貫き通す大切さを述べられています。そこには、この信仰によって乗り越えられない苦難はないという確信も込められているのではないでしょうか。
人はどんなに大事にしている信念や生き方であっても、いざ思ってもみないような苦難に直面すると、疑ったり、迷ったりしてしまいます。また、目標に向かっていく時、すべてが順風満帆に進むわけではありません。ただし、そこで迷ってしまえば、これまで積み重ねてきた歩みも止まってしまいます。
それでは、逆境に負けないために、何が大切なのでしょうか?
まことの時に「約束」を忘れない
本文
我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。
(御書新版117ページ8行目~・御書全集234ページ8行目~)
意味
私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。拙い者の習性として、約束したことを、いざという時には忘れてしまうものである。
語句の説明
・「まことの時」
物事が現実になった時。ここでは、難に直面し、成仏の機会を得た時のこと。
大聖人は弟子たちに対して、苦難があっても疑いを起こしてはいけないと常々教えてきたけれども、実際に苦難が起こった今、多くの弟子が信仰を捨ててしまったと述べられています。
仏道修行の途上には障魔(注5)が競い起こるとされます。また『法華経』には、三類の強敵が襲ってくると説かれています。弟子はそれを頭で理解していたはずですが、いざ“自分ごと”になった時、忘れてしまったのです。
(注5)障魔
正法を信じ行ずる時、信心の深化と実践を阻もうとする働き。
大聖人は、拙い者の特徴として、約束したことをいざという時に忘れる点を挙げられています。反対に、いざという時に「約束」を忘れない人は、どんな苦境にも負けずに、信仰を貫いていけるということではないでしょうか。
この「約束」とは何でしょう? 大聖人の弟子たちで言えば、信仰を貫いていくという大聖人との約束に当たると思います。また、成仏を目指す仏法者としての誓いとも言えます。
私たちが目標に向かって進んでいく時も同じではないでしょうか。苦境に陥った時、誰かとの約束があり、それを思い出せば、乗り越えていく勇気がわいてくるものです。また、約束とは、自分自身との約束、つまり自分が決めた目標や初心と言ってもいいかもしれません。
いざという時に、進むのか退くのか。「約束」を忘れないことに、その境界線があります。そして、逆境に立ち向かい、必ず乗り越えていけるのが南無妙法蓮華経の信仰の力なんです!
この2年半に及ぶコロナ禍の中、いろいろな場面で逆境に立たされた方々が多くいます。そんな中でも創価学会員は、信仰を根本に前を向き、絶対に乗り越えられると確信して現実と格闘し、実際に乗り越えてきました。奮闘中の方々もいます。その力は、いざという時に「約束」――初心や誓いを忘れない強さから生み出されたものと言えるのではないでしょうか。
御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。
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