成仏ってなに? 2022年2月度座談会拝読御書「一生成仏抄」

創価学会では、毎月、全国各地で座談会という集いを開き、鎌倉時代の日蓮大聖人(1222年~1282年)が書き残された「御書」(論文や手紙など)を学び合います。機関誌の「大白蓮華」や「聖教新聞」には、その月に学ぶ「座談会拝読御書」を解説する記事が掲載されていますので、ここでは、信仰を持っていない方々にも理解しやすい視点から、青年部員が御書の内容を解説します。

2月度担当のくまたです。

この前、「仏教で思い浮かぶものは何?」って友達に聞いてみました。すると「お経とか、仏像とかかなぁ…」という答えが返ってきました。お経というのは、仏が説いた教え。仏像というのは、仏を尊敬する気持ちから作られた像。そう、仏教と仏は切っても切り離せません!(当たり前…)

一方で、仏教に関係する言葉で、ちょっと誤解されているものもあります。その一つが「成仏」。世間では亡くなったら「成仏」って言っている場合がありますが、亡くなること=成仏ではないんです。

「成仏」とは、「仏に成(な)る」こと。仏教は、仏が説いた教えであると同時に、仏になることを目指す「成仏」のための教えでもあります(大乗仏教)。

では、仏になるって、どういうことでしょう? 辞典を開くと、仏(ブッダ)とは「目覚めた人」「心理、本質、実相を悟った人」という意味ですが、目覚めるとは一体…?

それでは、今回の拝読御書「一生成仏抄」を通して学んでいきます!

拝読御書について

「一生成仏抄」は、1255年(建長7年)に記され、下総国(千葉県)に住む門下である富木常忍に与えられたと伝えられますが、詳細は定かではありません。

題にある「一生成仏」という言葉は、『法華経』、そして日蓮大聖人の仏法の特徴をよく表しています。仏ではない凡夫(注1)が、いま生きている一生(今世)のうちに成仏することです。『法華経』は、あらゆる人々に仏界(仏の覚りの境涯)がそなわっていることを明らかにしており、この身のままで、ただちに成仏できることが説かれています。

(注1)凡夫
普通の人間。煩悩・業・苦に束縛され、迷いの世界で生死を繰り返す者。凡夫が住む娑婆世界(現実世界)は、煩悩と苦しみが充満した場所であり、穢土(けがれた国土、場所)とも呼ばれる。

一方で、仏法の中には、この一生では成仏できず、気が遠くなるような期間にわたって生死を繰り返して、やっと仏に近づいていくことを説く経典がたくさんあります。なので、そうした教えと対比して、今世で成仏が実現できることを強調したのが「一生成仏」という言葉です。

では、仏になるとはどういうことでしょうか? また、どうすれば一生のうちに仏になれるのでしょうか?

仏も衆生も実は同じ存在

本文

衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。

(御書新版317ページ12行目~・御書全集384ページ2行目~)

意味

衆生といっても仏といっても、また同様なのである(二つの隔てがあるわけではない)。迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。

この御文の前では、『維摩経』に基づいて、浄土(清らかな国土、場所)も穢土(けがれた国土、場所)も、実は場所という意味では同じであり、そこに住んでいる人々の心の善悪によって異なる、とされています。

それを踏まえて、この御文では、悟りを得ている仏と、悟りを得ていない衆生(凡夫)を比べ、浄土・穢土の関係と同じであるとされています。仏も衆生も、実は同じ存在であり、さまざまな迷いに覆われているので衆生と言い、悟りを得れば仏と言うのです。

大聖人がいらっしゃった鎌倉時代は、穢土であるこの世を嫌い、仏の住む浄土に生まれ変わることを願う念仏信仰が広まっていました。また、何度も生死を繰り返す中で修行を積むことによって仏になれるという考え方も根強くあります。

しかし、そもそも仏教を創始した釈尊(ブッダ)は、自ら修行して悟った(目覚めた)のであり、弟子たちにその悟りを共有しようとしました。ここではないどこか別の場所に救いを求めたり、あるいは何度も生死を繰り返した果ての成仏を願ったりするというのは、本来の教えから離れている気がしますね。

大聖人は、今いる場所で、今世のうちに仏になれる一生成仏を主張されました。それは、何か別の超越した存在になることではありません。自分自身が、悟りという仏の境界を得ることによって仏になるということです。

もう少しくだけて言うと、悩んで迷っている自分も、それらを振り切って頑張っている自分も、同じ自分であることには変わりがありませんよね。その点を分かりやすくするために譬えが挙げられています。

自分を磨けば智慧が輝く

本文

譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。

(御書新版317ページ13行目~・御書全集384ページ3行目~)

意味

たとえば、曇っていて、ものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものである。今の(私たち凡夫の)無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くなら、必ず真実の悟りの智慧の明鏡となるのである。

語句の説明

・「無明」
生命の根源的な無知・迷い・癡(おろか)さであり、一切の煩悩を生む根源とされる。

・「法性」
万物を貫く根本の法そのもの、仏の悟りの本質。

・「真如」
ありのままの真理。

大聖人の当時、鏡は銅でできていました。放っておくと、すぐに曇ってしまうので、宝石のようにキラキラと輝かせるためには、コンスタントに磨かないといけなかったそうです(大変…)。

そのことを踏まえて大聖人は、人々の心を鏡に譬えられています。迷いがある心を曇った鏡に、悟りのすがすがしい心を曇りのない鏡としています。人の心は自然と迷いに覆われて曇ってしまいますが、磨けば必ず晴れ晴れと悟りの境涯をあらわすことができるということです。それが仏なんです!

仏は悟りに到達したらおしまいではなく、常に目指していくべきものとも言えます。確かに、普段の生活では何かで行き詰まったり、惰性に流されたりすることもありますので、常に向上心をもって自分を磨くことは大切ですよね。

さて、鏡は布などで磨けばいいんですが、心を磨くとは、何をすることなんでしょうか?

成長への自分磨きは唱題行

本文

深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。

(御書新版317ページ16行目~・御書全集384ページ4行目~)

意味

深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠ることなく自身の命を磨くべきである。ではどのようにして磨いたらよいのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである。

私たちにとって心を磨くのは、南無妙法蓮華経と唱えることによると仰せです。深く信じて、コツコツと。それによって、簡単に曇ってしまう迷いの心を、悟りを得た境涯の高い心にしていくことができます。

南無妙法蓮華経の唱題を通して、世界中の創価学会員が心を磨いています。日常生活の中で、困難に動揺せずに行動できるようになったり、自分に自信を持てるようになったり、そうした自分自身の変化や成長を得られるのが、日々の地道な唱題行なんです。

池田先生は、「我が生命に具わる妙法の無限の力を、何の妨げもなく、必要なときに必要な形で発揮できるのが仏の生命です」(『一生成仏抄講義』)と語られています。

成長の力は、実は自分の中に眠っています。その力を、日々の自分磨きによって、自分の中から目覚めさせることが私たちにはできます。

それが、南無妙法蓮華経の唱題による自分磨きです。それによって私たちの中に眠る仏界という最高の境涯を引き出し、何があっても動じない幸福を築いていくことができるのです。

御書のページ数は、創価学会発行の『日蓮大聖人御書全集 新版』(御書新版)、『日蓮大聖人御書全集』(御書全集)のものです。

SOKAnetの会員サポートには、教学研鑽用に以下のコンテンツがあります(「活動別」→「教学」)。どなたでも登録せずに利用できますので、ぜひご活用ください。
・御書検索(御書新版・御書全集) ・教学用語検索
・Nichiren Buddhism Library ・教学入門 ・まんが日蓮大聖人
・仏教ものがたり(動画) ・教学クイズ ・座談会御書e講義

この記事のtag

#座談会拝読御書