男子部教学室論考 「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成 的外れな“批判本”を破す――『創価新報』から転載

「御書根本」に学会教学は伸展
“批判本”は誤読を土台、閉鎖的宗門教学に固執

このほど、須田晴夫氏が『創価学会教学要綱』(以下『教学要綱』)を論じる本を自費出版した。
  
その主な内容は、“『教学要綱』は日蓮を「釈迦仏の使い」と位置づけ、その下位に置いている”という批判である。
  
『教学要綱』では、あくまで御書に基づき、「大聖人は、自身を『如来の使い』『教主釈尊の御使い』と位置づけ」(『教学要綱』45ページ)て、「自身こそ上行菩薩の働きを行う者であるという自覚」(同)をもって、末法の万人成仏の法を確立されたことを示している。つまり、大聖人御自身が自らを「釈迦仏の使い」と位置づけられていることに論及したものであり、それをもって上記のように批判するのは、明らかな誤読であるといえる。氏の批判は、この誤読を土台に展開されているため、全く説得力のないものである。

「末法の教主」とは

氏は、日蓮大聖人は釈尊を超越した根源仏であると主張するが、これは宗門教学そのものであり、大聖人の御書や日興上人の著作に基づいたものではない。
  
氏は、宗門に伝わる、いわゆる戒壇本尊の特別な意義を否定しつつも、あくまで宗門の閉鎖的・神話的な教義を立脚点として、その立場から批判しているに過ぎない。
  
日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を末法の人々を救う法として確立された。そこには、明確に「釈尊―『法華経』―日蓮大聖人」という仏法の正統な系譜を見いだすことができる。
  
釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではない。日蓮大聖人は、末法の人々を成仏に導くために、釈尊に代わる末法の教主として、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し、末法万年にわたる人類救済の法を確立された。そのことをもって、創価学会は日蓮大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐのである。
  
『教学要綱』にあるように、創価学会は、宗門事件を経て「魂の独立」を果たしてから、「御書根本」「日蓮大聖人直結」の信心に立ち、大聖人の仏法の本義に基づいて、教学の在り方を一つ一つ見直し発展させてきた。
池田先生はその先頭に立たれ、30年に及ぶ膨大な教学に関する連載やスピーチ等を通して、学会教学の在り方を示し続けられた。それによって、日蓮大聖人の仏法が現代に正しく展開され、世界宗教へと飛翔していくことになったのである。『教学要綱』は、いわば、この30年の「創価ルネサンス」の集大成ともいえるものである。
  
それに対して、須田氏が“私が学んできた教義と違う”と言い立てているのは、この30年の学会教学の伸展を、そして、それを開いてこられた師匠の戦いを少しも学んでいないということを自ら露呈しているに過ぎない。

普遍的に説明

また、氏は、『教学要綱』には「人法一箇」「久遠元初自受用身」といった用語が用いられていないと指摘するが、これらについて、学会教学では、宗門教学で用いるような大聖人を神格化・神秘化する用語としてではなく、実践に即したより深い意義を掘り下げてきた。そのうえで、これらの用語を用いなければ大聖人の仏法を説明できないものではないことから、『教学要綱』では用いられていないのである。
  
氏は、大聖人を根源仏とする論拠として、「百六箇抄」「本因妙抄」などの相伝書を引用するが、これらの相伝書が宗門の法主信仰の温床となってきたことは事実である。また、宗内でしか通用しない相伝書に依拠するのでは、普遍的な説明にはならない。
  
『教学要綱』では、論拠とする御書は、日蓮仏法の骨格というべき十大部を中心としている。
  
また、氏は『教学要綱』の内容は身延派に近接していると繰り返し指摘しているが、『教学要綱』は、創価学会の教学の柱である「日蓮大聖人を『末法の御本仏』と仰ぐこと」「本尊は日蓮大聖人が御図顕された曼荼羅本尊を立てること」を明確に説明している。それは、大聖人観といい本尊観といい、身延派とは明確に異なるものである。
  
『教学要綱』は、現在の創価学会の教学が、日蓮正宗宗門の神話的・独善的な教学から明確に距離を置いたものであること、および他の日蓮宗各派とも異なる独自性を持つものであることを示すとともに、創価学会が日蓮仏法の正統な継承者として、どこまでも御書に基づき、大聖人の教えを現代に正しく展開し実践していることを明らかにしたものである。
  
また、氏は『教学要綱』は法宝と僧宝の内容を変更しているとしているが、そのような指摘は当たらない。
  
これまでの学会教学では、法宝について、「南無妙法蓮華経」と「南無妙法蓮華経の本尊」の二つの側面から説明してきた。そのうえで、『教学要綱』では、「法宝とは、仏が覚知した根本の法と、仏がそれに基づいて説いた教え」という仏教本来の定義のうえから、「大聖人が覚知し説き示された一大秘法の『南無妙法蓮華経』」としたものである。大聖人が覚知された根本の法(法宝)は一大秘法の南無妙法蓮華経であり、それを「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の三大秘法として具現化されたのである。
  
また、「僧宝」について、『教学要綱』は、あくまで「僧宝とは仏宝と法宝を伝える教団(サンガ)のこと」、つまり僧宝とは特定の個人ではなく教団であるという仏教本来の定義のうえから、現代において、創価学会における僧宝は、日興上人を範として日蓮大聖人の教えを実践している教団=創価学会であるとしている。それは、「今日では世界広宣流布を推進している創価学会が僧宝に当たる」という従来の解釈を踏まえたものである。
  
氏は、『教学要綱』が「一大秘法」を本尊から題目に変えていると指摘しているが、氏が言う「一大秘法」を「本門の本尊」とする解釈は、御書にはない。そのことはすでに、2014年の教義条項の改正に際して確認している。ここにも、氏が学会教学の伸展に追いついていない実態が表れている。
  
『教学要綱』(193ページ)にあるように、「曽谷入道殿許御書」では一大秘法は「南無妙法蓮華経」であることが明確に示されている。氏は一大秘法の解釈を日寛上人の「六巻抄」によっているが、御書ではなく「六巻抄」を根本とする氏の態度が浮き彫りになっているといえる。
   
そもそも、「一大秘法を本尊から題目に変えている」ということ自体、氏の無認識を示している。大聖人は、御自身が覚知された根本の法である「一大秘法の南無妙法蓮華経」を、「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」という三大秘法として具現化されたのであり、「一大秘法の南無妙法蓮華経」は三大秘法における本尊や題目とは位相が異なるものである。

伝聞を基に侮辱

須田氏は、創価学会会則の「会長は、教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議および最高指導会議に諮問するものとする」という条項を取り上げて、『教学要綱』の発刊にあたって最高指導会議が開催されたという発表はなく、会則違反であり、手続きを含めて法的にも問題が生ずる可能性があると指摘している。
  
しかし、これまで示したように、『教学要綱』は、30年かけて発展してきた創価教学を体系だった形にまとめたものであり、氏が言うような「根本教義を改変」したものではない。
  
そうした『教学要綱』の意義や編集方針、内容については、刊行委員会で、委員長の原田会長のもと、種々、真剣に検討された。そして、師範会議において、出席者が全員、内容を確認したうえで、了承されたのである。それを、氏が師範会議を「形だけのもの」と批判すること自体、学会の名誉を毀損するものであるといえよう。
  
また、『教学要綱』は教義を変更するものではなく、会則における「教義および化儀を裁定する」ものには当たらないため、師範会議の可決をもって了とされたのである。
  
さらに、氏は、池田先生が監修されたことに疑義を呈し、それを否定するような内容を述べている。『教学要綱』の編集作業は2年ほどかけて行われたが、その間、原稿を何度も池田先生に報告し、その都度、御指導をいただいて作成されたものである。それに対して、氏が臆測による無責任な発言をすることは、弟子としての最低限の礼節すら欠くものであるといえる。
  
なお、氏は、自身のホームページで、「『創価学会教学要綱』に関する原田会長宛て書簡」を公開している。そのなかで氏は「『教学要綱』を作成した中心は創価大学名誉教授の宮田・菅野両氏であると聞いております」と記しているが、これは事実と異なるものであり、宮田・菅野両氏は刊行委員会には入っていない。『教学要綱』の編集作業は、あくまで教学部を中心として進められ、仏教史などの専門的知見に関しては学識者に諮問する形で行われたのである。それに対して、須田氏が、曖昧な伝聞情報を不特定多数が閲覧することができるホームページ上で公表することは、学会本部や刊行委員会および宮田・菅野両氏の名誉を毀損するものであるといえる。
  
以上のように、須田氏の本の内容は氏自身の誤読や無理解、無認識から生じた論拠の乏しい主張に終始しており、その言動も、「いまだ得ざるを謂って得たりとなし」(新102・全224)という増上慢の極みであり、破和合僧の所行と断じざるを得ない。

(「創価新報」2024年11月1日付)

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