「友人葬」ってなに?
僧侶を呼ばずに、遺族・友人など故人と親しい人たちで執り行う「真心」の葬儀です。
創価学会の「友人葬」とは、日蓮大聖人の仏法の精神にのっとって、真心から故人の冥福を祈ることを重んじた葬儀です。
既成仏教の葬儀との決定的な違いは、僧侶がいないこと。各地域の「儀典長」などを中心に、遺族をはじめ故人と交友関係を結んできた友人らが追善回向の読経・唱題を行います。生前の故人に会ったこともない僧侶ではなく、故人をよく知る儀典長らが、その生き方をたたえ、真心あふれる挨拶をすることも特徴的です。
葬儀に僧侶がいる、いないは、成仏とは一切関係ありません。また、香典や謝礼も必要ありません。(もちろん、特別に親しい関係にあった方が、どうしてもという気持ちで香典を持参するのは自由です。)
創価学会の友人葬について、各界の識者も「葬式のための宗教から、人生を生きるための心の灯としての宗教、人間の“生きがい”としての宗教に変わっていかなければなりません。(中略)宗教の真実の覚醒のために創価学会が今やっていることは、世界宗教的な使命と意義を持っている」等と声を寄せています。
形式ではない、故人と親しい人たちによる清々しい儀式に、大きな共感が広がっているのです。
「創価学会が“香典泥棒”をしている」とのデマについて
「創価学会が“香典泥棒”をしている」等のデマがありますが、葬儀の際に故人・遺族に贈られた「香典」を、創価学会の組織が持ち帰るというようなことは、一切ありません。そもそも、葬式で第3者が「香典」を持ち去るなど「窃盗」であり、明確に「犯罪」です。もし“香典云々”が事実だとすれば、警察沙汰になるはずです。
この根も葉もない中傷が流されはじめたのは、昭和30年代半ば頃のことです。当時、創価学会は、75万世帯の達成(昭和32年)、池田大作第3代会長就任(同35年)、300万世帯の達成(同37年)など、目覚ましい発展を遂げていた時期でした。このデマが流布し始めた当初から今日まで、一貫しているのは、「全く根拠がない」ということ。つまり、具体的な「事件」や「事実」が提示されたことは、一度もありませんでした。事実を証明する「証拠」や「目撃者」など、何一つ存在しなかったのです。
創価学会の組織による“香典泥棒”など「全く存在しなかった」という証拠の一つに、かつて、このデマを掲載した新聞が、学会に謝罪したという出来事があります。昭和37年、「茨城新聞」(当時「いはらき」)は、4月1日付の記事において「信徒の家に葬式があると、親せき知己から集まる香典はすべて創価学会支部が持ち去ることになっているらしい」などと事実無根の内容を掲載しました。学会側が直ちに厳重抗議をすると、同紙は“事実の確証はなかった”として同17日付の1面に訂正記事を掲載。「報道の誤りを認め、学会関係方面にご迷惑をおかけしたことを遺憾に存じます」と明確に謝罪したのです。
なお、創価学会の「友人葬」では、会員間の「香典」は必要ありません。また、式の運営や読経の導師まで、葬儀に関わった人への謝礼についても全く必要ありません。もちろん、地域の実情に応じて、親戚など故人と特別に近しい関係のある方々の香料を制限するものではありませんが、儀礼的に「香典」を持参する必要はありません。